昨年のリトリート音声ファイルからQ&Aの一部を訳しました。
(ちょっと長いけれど とてもオススメな内容です)
<質問者>
「私」という感覚はいったい何なのか
今朝から静観していたところ
「私」というものは何もかも
単なる思考のパターンでしかないと気付いて
何だか怖くなりました。
今まで自分が現実と思ってきたことなど
何もかも全くの見当違いだったという事実を
突きつけられた感じなのです。
<アジャ>
真実を体験し始めたということですよ。
よかったじゃないですか
<質問者>
そうなんですけど
想像していた世界と違うんですよね
<アジャ>
何だってそんなものでしょう。
何かに対するイメージと
実際の体験は
かなり違うものですよ。
<質問者>
だからといって
思考を止めることなどできないのですが
思考が起こるたびに
その波動というか
固さや密度を感じたり
また
そのとき思考が身体のどこにあって
何にとらわれているのかなど
感じ取れるようになりました。
何だかとても怖く感じるのですが
適切なプロセスを
うまく進んでいるのでしょうか?
<アジャ>
現実だと思い込んでいたものが
何もかも幻想だったと気付くと
ほとんど誰でも怖くなるものですよ。
本来なら
真実こそ心地よくて
幻想のほうが恐ろしいはずなのに
幻想を居心地よく感じて
真実を恐れてしまうんですよね
そういうものですよ。
「私」の正体に気付き始めると...
「『私』は思考パターンでしかない...
ということは
思考ナシでは
『私』は存在しないということ?」
「この『私』が
単なる思考の寄せ集めだなんて...」
こんな考えに無意識に襲われて
「私」は怖くなってしまうのです。
<質問者>
そういう言葉を聞くと
ちょっとステキなことのように感じますが
実際の体験はぜんぜんステキではないのです
<アジャ>
それが
観念と実体験の違いですよ。
オレンジがどんな味なのかを描写した言葉と
実際にオレンジを食べた体験は違うでしょう?
今のあなたはちょうど
実際にひとくち食べたところなんですよ。
スピリチュアル界のおとぎ話で想像していたような
きらびやかな体験ではないでしょう?
「怖い」と感じるときは大抵
うまく進んでいるというサインなんですよ
真実にあまりにも近づくと
怖くなるのです。
<質問者>
ところで
創造的で実用的な思考は
必要なものだと思っていたんですが
「私」という感覚を静観していたら
その創造的な思考がムクムク出てきて
そのとき
「たとえ『私』が幻想であっても
やらなければならないことがあるのでは」
という考えに襲われたのです。
義務感のような...
<アジャ>
あなたの義務はただ
この世界をのんびり観察することだけです
その他に
「やらなければならないこと」
など何もありません。
あとは
偽りの自己イメージを
どんどん消去していくこと。
「あれも、これも、
『私』って何もかも幻想だったんだ!
こんなに明らかなことに
なぜ今まで気付かなかったんだろう」
ってね
<質問者>
まさにそう気付いたとき
そのセリフを大声で叫んでしまいました
さっきの続きですが
創造的な思考の中にいたとき
「今後どうやって
周りと仲良くすればいいのだろう?」
という疑問も湧いてきました。
<アジャ>
「私」が幻想だと気付くことが
本当の意味で調和になるんですよ。
そもそも
「仲良くする」というのは
分離意識を前提とした考えでしょう。
「団結」とか「協調性」なども
聞こえは良いけれど
分離意識をベースにしていないと
成り立たない観念なんですよ。
仲良くしたり団結したりすると
いい気分になるでしょう
それは別に悪いことではないんですよ。
分離意識が「悪いこと」ではないのと同じです
でもその「人と仲良くするイイ気分」への囚われが
分離意識に深く沈みこんでしまう
要因でもあるのです。
そのことに気付くときがやって来ます。
「仲良くする」とか「協調性」がイケナイことで
目覚めたら二度とそんな感覚を持たない
というわけではないのですよ。
しかし
真実に気付く前の感覚とは
決して同じではないのです。
<質問者>
分かります。
ぜんぜん違いますよね。
<アジャ>
そのまま白ウサギの後をついていって
思い切って
ウサギの穴の中に下りていってごらんなさい。
私が背中を押して
穴に落としてあげますから
<質問者>
ええ、そうして欲しかったので
手を上げて質問したのです
<アジャ>
「ウサギの穴の中に下りていけば
きらびやかな世界が待っている」
なんて偽りの希望を
持たせているわけではないですよ。
ただ
あなたはうまいこと進んでいるのだから
そのまま更に深く進みなさいと言っているのです。
「いったんウサギの穴に入ってしまったら
以前と同じ世界には戻れないのではないか?」
そういう直観があるから
いま怖く感じているのでしょうけどね。
実際に体験が始まると
自分で望んでいたことだったということを忘れて
何だか怖くなるものです。
今までの悩みだって
同じようなものでしょう?
自分が望んで飛び込んだはずの世界が
実際に入ってみたら
期待していた世界とはちょっと違っていた。
具体的な内容はそれぞれであっても
そういうことの繰り返しなのです。
今あなたが怖く感じるのは
当然でしょう。
スピリチュアルな話を見聞きして
「目覚めるって
夢のようにキラキラした体験なんだ」
そんなふうに想像していたけれど
実際に自分で体験し始めると
そんな話はキレイに飾られた観念だったのだと
初めて分かるのですから。
そして
あなたが目覚めたとき
ただひとつハッキリと知ることは
「決して何も知ることはできない」
ということです。
でもそれが楽しいんですよ。
「知ることなどできない」というのは
おもしろいことなのです。
どんなに怖いと感じても
信頼することです。
「いったんウサギの穴に入ったら
もう二度と前と同じ世界には
戻れないんじゃないか」
純粋に直観を感じ取れば
この感覚は誰にでもあるでしょうが
その直観は大当たりです
真実です。
でも
直観そのものではなく
思考が直観をあれこれ解釈したことは
全くデタラメですよ。
そして
あなたが怖がっているのは
直観で感じている真実ではなく
思考の解釈のほうなのです。
<質問者>
わかりました。
ありがとうございます。
<アジャ>
自分がガラガラと崩壊していく様子を
ただ見ていればいいのです
「こんなことを現実だと思っていたなんて」
「ぜんぶ妄想だったのね」
こんなふうに
自分が悩まなくてはいけないことなど
何も無かったのだと分かってきますよ。
自分や周りにどんなことが起こっても
本当に悪いことなど何も起きていないと
分かってきます
「大変なことが起こっているじゃないか」
などと思考が言い始めても
本当はぜんぜん問題なんか無いと
分かってくるのです。
<質問者>
それを何度も思い出すようにします。
世界には悪や惨事や不幸が存在していて
それを何とかする義務や責務があるとか
そういう観念に
気をとられることがあるんですよね。
スピリチュアルの教えを説いている人でさえ
そういう観念を持っているように
思えることがあるのです。
<アジャ>
真実に近づき始めると
そのような観念に阻まれることは
珍しくないんですよ。
「世界には悪や苦しみ悲しみが存在しているのに
そんな現実から目をそらしたり
放っておいてはいけない」
これは個人的な観念というより
人類共通のタブーと言えますね
そんな観念による義務感や罪悪感が
真実へ進むプロセスで
足かせになることがあるのです
「苦しんでいる人々がいるじゃないか
目をそらさずに
思いやりをもって
現実をしっかり見なさい
それがみんなのためになるのだ」
こんなふうにね。
でもそれは言い換えると
「偽りの『私』というエゴが
集団妄想の世界にハマったままでいれば
みんなの役に立つのだ」
と言っているのと同じですよ。
そんなワケないと分かりますよね。
でもこういったタブーは
とても強く響くものです
まるで
美しい正義のように見えますからね
そして
このタブーにひっかかって
それ以上進めなくなってしまう人は
非常に多いんですよ。
それほど強力な
まるで美しい真実のように見える
大妄想なのです。
特に
大きな出来事が起こったり
身近な人のことになると
ますます強く響くんですね。
「本当に放っておいていいのだろうか.....?」
と、なかなか素通りできずに
ひっかかってしまうのです。
そういうことがあるから
思い切ってウサギの穴に落ちなさい
そう言ったんですよ。
「つらい目にあっている仲間たち
大切な家族やパートナー
子供のことを思うと....」
そんな思いや
「私は正義感があって
愛情深くて
いい人なのだ」
という思いなど
何にひっかかるかは人によりますが
真実へ向かい始めたとき
こういったことが
実に巧妙なブレーキになるのです。
でも あなたはもう
何が真実で
どっちに進みたいのか
分かっているのでしょう?
だったらそのまま進むことです。
大きな勇気がいりますけどね。
<質問者>
自分が向かっているのはどんな世界なのか
知りたいと思っていたんですけど
決して決して
知ることはできないんですね。
<アジャ>
そういうことです。
知らなくていいのです。
「知っている」というのは
厄介な観念なんですよ。
「私はそんなこと知っている」
「こんなことも知っている」
「アレもコレも知っている」
なんてね。
<質問者>
私はそういうタイプの人でした
<アジャ>
でも実際に真実を体験してみると
知っていると思っていたことなんて
何から何まで まと外れだったでしょう?
実は何も知らなかったのだと
そう分かったでしょう?
<質問者>
まさにその通りです。
<アジャ>
「目覚めている人は
何でも知っているのだ」
こういう誤解は本当に多いですね。
実際は
目覚めている人が最も無知なんですよ。
「知っている」ことが多いのは
目覚めていない人のほうです。
目覚めれば目覚めるほど
知識は減っていき
絶対的な叡智だけが残るのです
「知っていること」「知識」なんて
嘘っぱちでバカげたものだと
分かってきますよ。
そのまま深く進み続けて
旅の途中でどんなことが起きても
楽しんでください。
怖いと感じたときは
ジェットコースターと同じだと思い出して
スリルを楽しむことです
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Asaminさん
いつもありがとうございます。
蓮さんのブログから
飛んできているのですが、
こちらの記事も私のブログでも紹介させてもらいました。
いつも素晴らしい記事の紹介ありがとうございます。
いまちょうどタイムリーに響きました。
SECRET: 0
返信削除PASS:
��いづみさん
こんばんは。
今回のお話は今まででイチオシかもしれません(笑)
またご紹介いただいてありがとうございます。
私は記事をアップした後によく
こういう言い方のほうが分かりやすいなぁと思い付いて
細かい表現をいくつか変更したり
言葉を追加したり削ったりすることがけっこう多いので
リンクではなく転載の場合はその点をご了承くださいね(^人^)
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返信削除PASS:
いろんな未知にあり得ないことを探してきて、懸念するその解釈が恐怖だったんですね。ここ数日去来していたので、ふっと楽になりました
SECRET: 0
返信削除PASS:
はじめまして
読書登録させて頂きました。
Down the Rabbit Hole
白ウサギを追いかける旅
この題名は不思議の国のアリスですよね。
不思議の国のアリスは~
ウサギを追いかけて穴に落ちる前~アリスは
陽のあの世の静寂~涅槃~安息にいました。
穴はこの現実界~陰の世界にアリスは巻き込まれ~
青い芋虫に煙(THC)を吹きかけられる(笑)
そして対立する青の女皇帝と赤の女皇帝の戦い。
そして~陽の世界に(死の魂だけの世界)返り咲く
最後にお母さんがアリス~「お茶が入ったわよ~」と陰の夢の現実から覚める。。。。
このことを作者のルイスキャロルはメッセージとしてこの世に送っていると感じていました。
何が言いたいかといえば~陰のこの世は何一つ
としてリアルなものは無いという事です。
肉体に惑わされ~翻弄されているだけなんだ
逝きながら~逝く。陽の魂のトリップまでの~
今ここは~陰の幻想の世界~夢の世界
この世は肉体が有りますから。
全てを手放すとは~肉体も手放す事が~陽の真実の世界だと。。。。
生きながら~逝くことだと。
この世は陰の幻想
あの世が陽の真実の世界
Asamin さんはアリスの物語をどの様に感じていますか?お聞かせ頂くと、うれしいです。
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��greenbirdさん
ブログ開設おめでとうございます。
そうですね。
怖いとかツライとか感じるとき
体験そのものではなく解釈にそう感じていることがほとんどなのかもしれません。
そこに気付くだけでも大きな変化ですよね。
SECRET: 0
返信削除PASS:
��リアルエイジさん
はじめまして。
読者登録ありがとうございます。
ブログ名に着目していただいたのは初めてかもしれません(^-^)
「Down the Rabbit Hole 」は
表面に見えていない真実を探ることの比喩で
よく使われる言葉なので、そこから取りました。
「白ウサギを追いかける」は
映画「マトリックス」のセリフから。
あまり考えずノリで付けたのですが
もちろん両方とも
「不思議の国のアリス」に由来する言葉ですよね。
不思議の国のアリスは小学生の時に大好きで
鏡の国のアリスとあわせて何度も読んでいました。
小学校を卒業してからは一度も読んでいないので
細かい内容はほとんど覚えていないのですが
あの物語が
真実の世界と幻想の世界について書かれたものだというのは
大人になってから気付きました。
ルイス・キャロルが数学者だということもあって
宇宙の真実を悟った人だったのだと。
そしてカナビスのことを学び始めたときに
イモムシが吸っていたものの正体も分かりましたね(笑)
でも特に深い考察はしたことがなく
難しいことは分かりませんが
リアルエイジさんがおっしゃっていることは
その通りだと納得できます。
コメントありがとうございました!
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��Asaminさん
おっしゃる通り!
この解釈はどこからきてるんだろうと内面に問いかけるだけで楽になりました。