<質問者>
10代の後半、確か17歳の頃
とても強烈な目覚めの体験をしたのですが
そのとき
「自分には
世の中の人々を目覚めに導く使命があるのだ」
と感じたのです。
<アジャ>
よくあることですね。
<質問者>
それで
「音楽を使って人々を目覚めに導くのだ」と
啓示を受けたような気がしたのですが
その方法に いまいちピンと来なくて
何年もの間 何もしませんでした。
でもやがて
目覚め以外のことには何も情熱を持てなくなったので
音楽を使って人々を目覚めに導くという活動に
人生を捧げました。
しかし
ミュージシャンとしてCDを出したりすることで
お金を使い果たして破産してしまい
自分がやってきたことが何もかもうまくいかず
悲惨な結果になったのです。
現在 私には生まれたばかりの子供がいて
もちろんそれはとても嬉しいことなのですが
そのような状況も理由になって
自分の使命だと感じていた活動を
あきらめざるを得ない状況になりました。
売れなかったCDの大量の在庫を見ては気が滅入り
自分が音楽に込めたメッセージも無意味に思え
私の人生は失敗のように感じるのです。
<アジャ>
もしも過去に戻って
その「失敗」を取り消すことができるとして
その代わり
子供を授かることも無いとしたら
どう思いますか?
今の状況とどちらかを選べるとしたら
どちらを選びますか?
<質問者>
どちらかを選ぶなんて出来ません。
「自分には人々を導く使命があり
感じていたのですが
だからといって
その使命を果たすためなら
子供を授からなくてもよかったなんて
考えることもできません。
<アジャ>
そうでしょうね。
葛藤がよく分かりますよ。
<質問者>
現在またお金が底を尽きかけていて
経済的に困った状態にあるので
いったいなぜ そんな使命を感じて
それがうまくいくなんて思ったのか
なぜこんなことになってしまったのか
強い不満や疑問を感じるのです。
<アジャ>
目覚めの体験が起き始めた最初の頃
そのような使命を感じるのは
よくあることなんですよ。
それも目覚めのプロセスの一部なのです。
禅では そのような状態をうまく描写して
「空(くう)に酔っている」と言います。
そのような使命を感じているとき
あなたは酔っぱらっているのです。
別に悪いことではないのですよ。
目覚めの初期段階において
「自分は重要なメッセンジャーだ」とか
「人々を目覚めに導くのが使命だ」とか
そのような感覚にとらわれて情熱を燃やすのは
とてもよくあることなのです。
悪いことではなく
自然なプロセスなんですよ。
なぜ そんな使命を感じたのか?
その疑問に対する答えは
多くの人にとって
それも目覚めのプロセスの一部だから。
それだけのことなのです。
赤ちゃんからいきなり少年になるのではなく
まず幼児というプロセスを経るのと同じことで
ごく自然なことなのですよ。
素晴らしい思いに突き動かされてやったことなのに
結果的に
失敗と思えるような状態になるかもしれませんが
それは
冷静になって シラフに戻されるプロセスなのです。
目覚めの初期段階では
どうしても冷静ではなくなり
酔ってしまうものですからね。
酔った状態から シラフに戻されるところなのです。
酔いから醒めるプロセスでは
お金を失ったり 失業したり
けっこう困難な体験をすることが多いのですよ。
二日酔いみたいなものですね。
ですから
酔いから醒めるキッカケになった出来事に対して
不満を感じるのも不思議ではありません。
今後ずっと使命感に駆られて生きるわけでは無いのですよ。
そのような使命感は
目覚めの途中の通過点でしかないのですから。
私たちは
ただ自分自身であることがギフトなのですよ。
誰かが
あなたや私のCDを買ってメッセージを聞いたとしても
それは本当のギフトではないのです。
本当のギフトは
自分自身として人生を生きる
その生き方なんですよ。
精一杯 心を込めて 生きることです。
毎日の生活の中で
出会う人々と どのように接するか。
起こってくる出来事に どう向き合うか。
家族にどのように接するか...。
メッセージなど何も発信しなくても
ただ本当の自分として生きることがギフトなのです。
禅では
「真実は 心から心へ しっかりと伝わる」
と言います。
言葉を超えて
心から心へ
意識から意識へ伝わっていくのです。
真実を伝えることは
大きな使命などにしなくても
それほどシンプルなことなんですよ。
使命感に燃えることは
いくら善意であっても 危険なことなのです。
熱心に人々を導こうとしている人を見ると
幻想にとらわれていて危険だと感じるのに
自分がそうなっていると
なかなか気付けないものなんですよね。
何十年も使命感にとらわれたままになる前に気付いて
あなたはラッキーなんですよ。
(つづく)