つづきです。
<アジャ>
目覚めが起こって
強烈な探求心がなくなったとき
探求心が消えたということは
もうこれが真実の全てなのだ、
これ以上は何もないのだと
勘違いしてしまうこともあります。
ある面においては
真実を知ったとき
それが全てだと言えるけれど
しかし同時に
真実には底なしの深みがあって
その深みにあるものをハッキリと見ていく
そのプロセスに終わりはないのです。
このことは
誤解されていることがとても多いと思います。
身も心も捧げて真実に恋い焦がれるような
強烈な探求心が消えると
もう全て分かったのだと思って
立ち止まってしまうんですね。
<リック>
確かにそうですね。
目覚めが起こった人々にインタビューをしていて
「まだ先がありそうですか?」
と尋ねると
半分の人は
「もう全てを知った。これ以上は何もない。」
と言うのです。
でも もう半分の人は
「心や感覚に真実を染み込ませていく。
そこに終わりはない。」と言いますね。
<アジャ>
真実を体現しながら人間として生きていく
ということですよね。
大きな目覚めが起こっても
ひとりの人間としての次元では
条件付けされた生き方に逆戻りしてしまうことも多いのです。
ですから
これもパラドックスなんですよね。
真実を知ったら
もうそれが全てで そこが最終地点だと捉えるほうが
シンプルでラクなんですよ。
でも本当に正直になってみると
真実には 果てしない深みがあって
その深みを明らかに見ていくことに終わりはない。
そういうパラドックスがあるのです。
そこに気付くかどうかは
意図の違いなんですよ。
もっと深いところを
見ようとすれば見えてくるけれど
見ようとしない人には
それ以上 見えてこないのです
よくあるパターンですよ。
目覚めとは
本当のスタートなのです。
昔の私はその言葉に
正直ガッカリしたものです。
目覚めが起こったら
それで探求が終わるのだと思っていたのですから。
でも私の師が
終わりといえば終わりだけど
本当のスタートでもあると言っていたのですね。
その意味を理解するのに
何年もかかりました。
本当のスタートというのは
探求したり真実を渇望するとか
そういう意味ではないんですよ。
真実を追い求めるのは終わりなのですが
別の扉が開くんですね。
その扉の向こうには
果てしない深みがあるのです。
<リック>
「目覚め」という言葉を
誰もが同じように使っているわけではないですよね。
あなたは「目覚め」を
どんなふうに定義しますか?
<アジャ>
目覚めといっても
いろんな段階があるので
定義するのは難しいですね。
目覚めの程度の差は置いておいて
一般的な脈絡ということで言いましょう。
目覚めと神秘体験の違いですね。
目覚めが起こると まず根本的に
自分とは何なのか
という認識が変化します。
「これが自分だ」という感覚が
それまでと変わるんです。
神秘体験の中にも
意識を大きく変えてしまうほど
強烈なのもありますけど
目覚めの基本となるのは
自分とは何かという認識の
根本的な変化です。
目覚めの前は
自我や思考を自分だと思っていますよね。
あるいは
いろんな教えを聞いて
「自分は純粋な意識なのだ」と
イメージすることもあるだろうけれど
そういう理解やイメージによってではなく
体験的に
「自分は純粋な意識なのだ」と実際に知って
新しいアイデンティティーを持つわけです。
「自分」という認識の軸が移行する
という感じですね。
大きな転換です。
その変化の前と後では人生も変わるでしょう。
しかし
それが目覚めの全てではありません。
目覚めの始まりではあるけれど全体像ではない。
その時点では 十分に目覚めてもいません。
まだ二元性にとらわれた状態なんです。
「無」 と 「形」
「意識」 と 「現象世界」
そこに違いを見て区別している。
まだ二元性の中ですよ。
それを見破って
そこからさらに抜け出さなくてはなりません。
真実には
そのような二元性はないのです。
<リック>
おもしろいですね。
最初の目覚めが起こった人は
そうやって区別しているのに
「これが非二元だ」と言いますよね。
<アジャ>
そうそう。
でも そこはまだ
ガチガチの二元性なんです。
おなじみの現象世界の二元性から
「形」 と 「無」 の二元性に移行しただけ。
「形」 も 「無」 も
「特定の誰か」 も 「誰でもない 」も
本当は全く同じで
どちらも同じ真実の一面なのだと
見抜いていける人もいるでしょうが
それでもまだ目覚めの全体像ではありません。
目覚めは もっとずっと深遠なのです。