2014/02/28

パラドックスと魔法


こちらから訳しました。


<ティム>

スピリチュアリティーと科学を融合させることは
世界とは何なのかを明らかにするために
とても強力な手段になると感じています。

ニューエイジのようなフワフワした思想ではなく
地に足の着いた実質的な形で

科学の力と
深遠なスピリチュアリティーの力

この両方から真実にアプローチして
目覚めへとつなげていくのです。
 
    
でもこれは
スピリチュアルの教えや世界観を
科学的にも正しいと主張しようということではないんですよ。

スピリチュアリティーと科学を照合するのではなく
まったく逆の視点から補完し合うということなのです。


<リック>

逆の視点といっても
スピリチュアルの教えと同じことを
科学が発見しているケースもありますよね。

たとえば
意識が統一場である、ということは
スピリチュアリティーとは無関係なところから
科学者たちも発見しています。


<ティム>

何をやろうとしているのか
詳しくは本に書いたのですが

私が重要視しているのは

まず第一に
目覚めの体験なのです。

頭で理解しているだけの状態から卒業して
実際に体験して知ること。

   
深遠なワンネスを直接体験すると
それまでに詰め込んだ知識などは
すべて落ちていって

驚きと同時に

「これを本当はずっと知っていたのだ」

「こんなに明らかなことに
 なぜ気付かなかったのだろう?」

という感覚と

人生に対する大きな信頼感や
存在の奇跡への深い感謝が生まれます。

ですから
私が最も大切にしているのは
哲学ではなく 直接体験なんですよ。

直接体験を通して
真実を自分で発見したり伝え合うこと。



それから

真実を私たちがより深く理解するために
新しい言語を創っていきたいと思っています。

伝統的なスピリチュアリティーの言葉は
パワフルではあるけれど
一定のイメージが付きものなので

固定観念が付けられていない
純粋でシンプルな言葉を使っていきたいのです。


物事を理解したがるマインドも
とても大切な道具なんですよ。

言葉から想像したり概念化することで
新しい目で世界を見る力があるのですから。


私が長年取り組んでいるのは

直接体験と言葉、
スピリチュアリティーと科学、
非二元と現象世界

両方を包括する
「両手利き」のアプローチです。

   ハート

ただし これは

「何であれ
  各自が信じることが真実なのだから
  何だっていいのだ

とか

どんな見解でも 
 単なる見解に過ぎないのだから
  何でも同じだ 

ということではないのですよ。

科学にも、哲学にも、禅にも、道教にも
それぞれに優れた洞察があるのだから

何かを拒絶することなく
融合させていきたいのです。


   balance*

真実は
根本的にパラドックスなのです。

パラドックスというのは
解決すべき問題ではなく

パラドックス自体が答えなんですね。



表面的な日常の世界、
つまり合理性が第一な現象世界では
片方が正解だったら もう片方は間違い
真実はどちらかひとつだけ。


でも量子の世界では
どちらも等しく正解になる。


科学では100年以上も前に
光の本質は
粒子でもあるし 波でもあると発見しましたね。

粒子なのか 波なのかは
人がどっちを見ているかで決まる。

 ~

どちらか一方だけが真実なのではなく
両方が等しく真実。

粒子であるというもの真実で
波であるというのも同時に真実であると。

このように

世界は根底まで突き詰めていくと
パラドックスなので

深遠な真実については
逆説的な思考が役に立つのです。

逆説的な真実が共存して補完し合う。
どちらも等しく重要。


これを
人生やスピリチュアリティーに当てはめると
たくさんの問題が消えていきます。


最近多くの人に
ワンネス体験や目覚めが起こっていますね。

しかしその体験は

ひとりの個人としての存在や
分離の次元への
拒否反応を起こすことも多いのです。
そんなのすべて幻想だ、無意味なのだと

非二元だけが真実で
分離は真実ではないというわけですね。

でも
あなたと私が分離した個人として現れている
というのも明らかな事実でしょう。

そして根底ではすべてがひとつ。

どちらも真実。
パラドックスなのです。


<リック>

それはとても大切なところですよね。

重力が本質的には存在しなくても
高いところから飛んだら落ちるように


量子力学の発見が事実であっても
ニュートン力学がウソだというわけではなく
両方が同時に事実なのですから。

先日インタビューしたある人は
「個人は存在しない」という事実を
人々に気付かせる活動をしていましたが

個人としての自分は
本質的には存在しないのだと気付いても

人間関係のゴタゴタで悩むことなんかは
相変わらず続いているんですよね。

  

<ティム>

最近は
ネオ・アドヴァイダと呼ばれるようなのも含めて
非二元の教えがすごい勢いで広まっていていますよね。

街角でもインターネットでも
「目覚めが起こった」人がたくさんいて
そこら中で誰かが非二元の話をしている。

非二元の教えは
強力な薬のようだと感じます。

現象世界の問題など消えてしまうけれど
副作用のように
人生は無意味だという虚無感を持つ人を
たくさん生み出している。

実際には
まだ人間として生きているのにね。


先日ワークショップで

現象世界も軽視されるようなものではなく
真実の一部であり
かけがえのないものだという話をしたのですが

ある参加者が
「やっと子供を作りたいという気持ちになった」
と話してくれました。

彼は 非二元の真実に目覚めてから

「世界は単なる幻想にすぎないのだ。
 なのになぜ その幻想にわざわざ
 子供という新たな存在を作り出すのか?
 無意味で虚しいじゃないか」

と感じていたけれど

ひとりの人間としての次元で生きることにも
情熱が戻ってきたということでした。


そのように
根底的な非二元の体験と同時に
ひとりの人間としての体験
両方を生きていける自由に気付くこと。

それが
私が取り組んでいる方向の本質なんです。


<リック>

目覚めが起こって 最初のうちは
非二元だけが真実だと言っていた人も

スピリチュアリティーが成熟していくにつれて
非二元だけではなく分離の世界も
両方が真実だという見方に
変わっていく傾向があるということを
以前話しましたよね。

その傾向は今でも続いているようですか?


<ティム>

はい、その通りなんです。

非二元について教えている立場の人でも
そのように変わっていくことがあります。


非二元への目覚めは終着点ではなく
新しい生き方の始まりなんです。 


   ☆

現象世界のことを幻想と言うけれど

単なる幻想ではなく
すごい幻想 なんです


とてつもない魔法なんですよ。

ヒンズー教では「マーヤ」と言いますが
幻想というよりむしろ
魔法という意味が強いんです。

   魔法のステッキ

意識そのものが分離なんです。

すべての源である存在そのものは
意識ではないのですが

それが
分離した現れ・二元性の体験を通して
意識になっている。

現象世界も 自我も 分離感も 思考も 
消し去るべき間違いなんかじゃなく
実に見事な魔法なんですよ




  




 




2014/02/27

終わるものと続くもの

さらにつづきです。

世界にも 自分にも 誰に対しても
もう何の抵抗もなくなって

どんな出来事が起こっていても
すべてがOKという感覚。

揺るぎない安らぎや解放感。

それが
目覚めの副産物と言えるでしょう。




しかし ひとりの人間としては
真実を体現して生きるという可能性が
どこまでも続いていく。


これは
目覚めによって生じるパラドックスです。


真実には
少し知るとか より多く知るとか
そういうことはありません。

知っているか 知らないか
ゼロか100かです。

あなたの真実ということは
周りにいる人の真実でもあり2人
朝飲むコーヒーの真実でもありティー

存在そのものの根本的な真実なんです。

その次元では
真実を知ると同時に探求者は消えて
そこで終わり。終止符が打たれる。
すばらしい安堵です。


しかし一方で

真実を知っても
まだ人間としての肉体を持っていますよね

ひとりの人間として
真実を鮮やかに反映させながら生きるという
可能性がどこまでも続く。

その次元では
まだまだ終わらないのです。


パラドックスですね。

片方では
真実を知ると それ以上は何もない。
おしまい。

もう片方では
人間としての生き方が続いていく。
真実を体現して生きる無限の可能性があって
そこに終わりはない。


ですから
「完全に悟った人間」
という状態はありません。

人間の次元では
可能性に終着点はないのですから。

人間としての次元に
真実を深く深く調和させていく。

その生き方に終わりはないのです。

      

大きな目覚めが起こった後
人間的な次元で生きていくことを
とても困難に感じる人もいます

目覚めによって知った真実と
ひとりの人間としての次元を調和させることが
わりとスムースにできる人もいれば
長い年月がかかる人もいるんですね。


ですから
大きな目覚めが起こったからといって

真実を体現して生きることが
誰にでもすぐにできるわけではないと
知っておくことは大切ですよ。

みんなそれぞれが
独自のプロセスを歩いているのだから

自分にも周りの人にも
思いやり深くあることです。

目覚めが起こった後でも
プロセスは続いていて

そのプロセスは穏やかなだけではなく
大変なこともあるのです。


そういう事実をよく知るにつれて
自分にも周りの人にも批判的にならず
あたたかく見守ることができるでしょう。


あの人は かなり目覚めている
この人は まだまだ×んて

誰がどれくらい目覚めているかで
階級を作ったりしないで(笑)

そんなふうに お互いに批判的になるのは
こういうスピリチュアルの集まりの
闇の部分でもあるんですよ。

まろやかにいきましょう










2014/02/26

目覚めにまつわる迷信-2

つづきです。



2つめの迷信

覚醒が起こると 自分という感覚が無くなる



自己感覚を無くそうと多大な努力をしている人を
たくさん見てきましたが

目覚めによって自己感覚がなくなるというのは
完全な迷信ですよ。

イエスや釈迦も自己感覚は持ったままでした。
目覚めが起こっていない状態に比べるとずっと少なくても
ある程度の自己感覚は生活していくために必要なのです。


自分という感覚が完全に消える
「ニルヴィカルパ・サマディ」と呼ばれる状態に
一時的に入り込むことは出来るのですが

悟りにはサマディが必要だというもの迷信ですし

もし常にサマディの状態に入っていたら
ただのマヌケみたいになります(笑)


心地よくパワフルな体験だけれど
その状態では生活できません。

      
たとえば 
食事をしようにも自分の口が認識できなくて
食べ物をのせたスプーンを
どこに運べばいいのかも分からないんです。
    

自分という感覚がないとは
そういうことですよ。

自我が消えるなどという教えを聞いて
自己感覚を消そうと努力してしまうんですね。

それは誤解なんですよ。


自己感覚は
生物として機能するために備わっているのです。

しかし私たちは幼い頃に
その自己感覚を「自分」だと思い込んで
幻想の自我を創り上げてしまうのですね。

でも生きていくためには
ごく基本的な自己感覚だけで十分なのです。

大切なのは

自分という感覚を無くすことではなく

自分という感覚はあるけれど
それは実際には自分ではないと気付いていることですよ。
 
       
      ☆

次の迷信は

「覚醒が起こると思考しなくなる

おもしろいですよね(笑)

思考はすばらしい道具です。
いろんなことが思考のおかげで出来ますね。

残念ながら多くの人は
逆に思考に使われてしまっていますが
うまく使えばとても便利なものなんですよ。

真実への目覚めが深まるにつれて
確かに

何かにつけて良い悪いとジャッジしたり
信念を持ったりすることはなくなり

マインドはとても静かになりますが
思考は起こります。

でも思考は重要な意味を持たなくなるのです。

これもやはり

もともとの性質によって

思考がかなり少なくなる人もいれば
わりと多い人もいる。

でも思考と自分を混同したり
固執したりすることは無くなるのです。

      ☆


次の迷信

「覚醒が起こると良い感情しか感じない」

覚者はいつもいい気分で
内的エクスタシーに浸って
恍惚とした笑いを浮かべている
というイメージでしょうか(笑)

そして決して怒らない。
これも迷信ですね。

イエスだって
教会で商売をしていたことに激怒して
怒鳴り込んで机を蹴とばしたでしょう。


目覚めが起こっても
どんな感情でも感じるのですよ。

個人的な感情を周囲に投影する
ということはなくなりますし

自己防衛や被害者意識といった
エゴと結びついた感情は消えても

それでも
怒り、悲しみ、嘆き
どんな感情でも起こり続けるのです。




性格もさまざまです。


目覚めが起こった人々に
このような活動を通して
今までたくさん会ってきましたが

とても静かな人もいれば 相当おしゃべりな人もいて
どんなタイプの人でもいるのです。

ある人が目覚めているかどうか
人格から判断することなどできないんですよ。


      ☆

まだまだ迷信はありますが
これでだいたい分かったでしょう。

目覚めとは何なのか知るには
まず
誤ったイメージを落とすことが大切です

   
      ☆

みなさん一人ひとりが
自分で答えを発見しなければならないんですよ。

自分で、自分の中に、自分の体験から
真実を発見するのです。

本当の自分を見ることで
周りの人々の真実も見えてきます。

自分も他の人々も
同じひとつの存在で

ひとつの存在が
さまざまな人や物として現れているのですから。
     
    

ひとつの側面や ある種の能力や
特定の体験ではなく

根底にある存在そのもののシンプルさ、
あなたの真実を発見すること

それが悟り、目覚めというものですよ。




無条件の意識、無条件の気付きは
ここにあります。

それは
条件付けされた自分を変えようとしたり
改善しようとしたり
目覚めさせようとするのをやめれば
すぐに見つかるのですよ。

無条件の意識、輝く仏性は
条件付けされた自分の中、
自分という操り人形の手の内に

既に あるのです。



    






2014/02/25

目覚めにまつわる迷信

(アジャシャンティのサットサンより)

覚醒や悟りについての描写や教えには
実際には目覚めや悟りとは関係ない内容がとても多いので
みなさんが誤解されていることも多いでしょう。

そのような迷信はほとんど気付かないうちに
目覚めへの足かせとなるので
いくつかの誤解を見ていきましょう。


よくある誤解の1つは

いろんな種類の神秘体験を
覚醒や悟りと混同している
ということです。

関連付けられて語られることが多いですが
覚醒と神秘体験には
大きな隔たりがあるのですよ。

とても魅力的な体験ではあるけれど
神秘体験はあくまで神秘体験でしかないのです。



周りと融合してひとつになったとか、

意識がどこまでも拡がったとか、

現象世界の原理が見えた、
               
クンダリーニが昇華した、

光や神聖な存在が見えた、

宇宙の起源を瞬時に理解した、

至福感に包まれて放心状態になった...


まだまだありますね(笑)


ついに意識の中に青い真珠を見た、

ハートチャクラが開いた、

クラウンチャクラが開いたとか
    
     
人によってはそのような神秘体験が
目覚めの副産物となることもあります。


しかし
目覚めとは関係なく起こることのほうが多いのですよ。


通常の意識状態より
ずっと深く豊かで幅広い体験をする能力を
人は潜在的に持っているんですね。

さきほど例に挙げたような神秘体験は
そういう潜在能力が発揮されたということであって
覚醒や悟りとは関係なく起こることが多いのです。

魅力的な体験ですが
覚醒とは大きく異なるんですよ。


そのような神秘体験を山ほど体験しながら
根本的な存在の真実に目覚めていない人も
とても多いのです。

ですから
神秘体験と 真実への目覚めを混同しないことは
とても重要です。


マンジュシュリ、シバ、シャクティなどと呼ばれる
宇宙に漂う集合的なエネルギーに接触するような体験も
すばらしく深いものですが

これもやはり悟りや目覚めではなく
ただ
現象世界の微妙な部分を見ているだけのことです。


たとえば このテーブルや肉体は
現象世界の中でも
かなりハッキリと現れている部分ですが

一方、現象世界の中でも
とても微妙な部分を体験することが
神秘体験と呼ばれるもので

スピリチュアルの探求をしていると
そのような体験をすることはよくあるのです。

もともと神秘体験をしやすい体質というのもあります。


神秘体験をしにくい体質の人は
めったに体験しないけれど

もともと神秘体験をしやすい体質の人は
5分も瞑想していれば光のショーが始まったり
しょっちゅう体験する(笑)

別にそれが悪いわけではないんですよ。
ただそういう体質だというだけですから。


神秘体験をしやすいかどうかは
どちらでもいいことであって

神秘体験は真実への目覚めではないと
知っておくことは重要です。


そのような体験をする能力が
私たちには潜在的に備わっているので

人によっては目覚めの副産物のように
神秘体験が起こることもあり

目覚めには神秘体験が関係するのだと
誤解されてきたのですが
実際は違うのです。


そのような体験を
真実への目覚めと勘違いしないことが重要です。


十分に目覚めていて 深い悟りの状態にありながら
ほとんど神秘体験をしない人も とても多いのですよ。


でも神秘体験をしたことがない人は大抵
自分も体験してみたいと思っていて

体験したことがある人は
もっと体験したいと思うんですよね(笑)

まるで悟りとは
ある種の神秘体験をずっとしていることであるかのように。

でもそうではないんですよ。

このような迷信は放り投げたほうがいいですね。

神秘体験を追い求めたり
その体験を長引かせようとしたりするのは
時間とエネルギーのムダですから。

楽しい体験ではあるけれど
それも来ては去っていくものです。




 





2014/02/21

人間を超えていく


さらに つづきです。


<ティム>

意識的な存在として 今ここで
あなたと私は分離した形で現れている。

  ♪うさぎ

これは明らかな事実ですよね。


たとえば
私が頭の中で考え事をするとします。

私が何を考えているのか

私には自分で分かるけれど
リサには分からないでしょう?


根本は分離などしていない。

でも形として現れている存在は
それぞれ独自の体験をしている。


そういう明らかなことを否定していたら
いびつな幻想になってしまいますよ。


形のレベルでは
あなたと私は確かに別の存在なんです。

ある視点ではすべてが無だけれど
別の視点では あらゆる形が存在する。

それぞれ独自の意識体験をして
別々の身体を持っている。

それは否定できないですよね



<リサ>

もちろん否定できますよ。

そういうのは概念だし
身体があるというのも単なる想像です。

今あなたが話したことはぜんぶ
言葉による解釈に過ぎません。


<ティム>

私たちの思考や会話は
すべて言葉になるなのだから
それはどうしようもないでしょう。

何でも
「そんなの単なる言葉だ」と言っていれば
リサは必ず正しいわけです。
会話は常に言葉なのだから。



形のレベルの分離だけを見て
根本はひとつだという事実を知らずにいるのは
とても大きな喪失だけれど

逆も同じことで
分離した現れという事実を無視するのも
やはり大きな喪失でしょう。



<リサ>

あまり納得できません。

すべてはあるがままで
起こることがただ起こっているだけ...



<ティム>

あなたは そう見ているんですよね。

私は その視点だけがすべてだとは見ていない。

こんなふうに
あなたと私には違いがあるでしょう。

源はひとつだけれど
形のレベルでは リサと私の 2人の会話です。


<リサ>

人生がただ起こっているだけです。

私には
あなたも私も見えません。

リサは どこにもいません。


      ☆



<ティム>

伝統的な禅に
こんな素晴らしい描写があります。

’ 山は山、川は川に見えていたが

 突然
 山が山ではなく、川が川ではなくなる

 そして再び
 山は山山 川は川となるどんぶらこ ’


すべては無であるという悟りを得た後
再び人間的な視点を取り戻し
あらゆる現れを形として見るということです。


ニサルガダッタも同じような描写をしていました。


’ 叡智は 「私は無だ」 と言う

  愛は 「私はあらゆるものだ」 と言う

  人生はその両方の間を漂う  ’



分離と非二元

私たちはいつでも
両方に生きていてるのです。


      ☆


<リック>

世界にはいろんな物や現象があり
多様性に溢れているけれど

それは表面的にそう見えるだけであって

どんなものも
その本質を突き詰めていくと「無」になる、
世界はバーチャル・リアリティーだと
現代の物理学でも説明されています。

でもそれを理解したところで
「何も存在しない」 「誰も存在しない」
ということだけが真実とは言えないのではないでしょうか。


たとえば

重力も量子レベルでは無になる。
つまり突き詰めれば
重力は存在しないと物理学者は言えるけれど

それが事実だからといって
ビルから飛び降りても下に落ちない鳥ポケモン
ということになりますか?



<リサ>

う~ん........笑



<ティム>

とても重要なポイントですね。


科学が非二元の教えとよく似た
深淵なシンプルさを発見したのは
すばらしいことです。


そこで謎となるのは

私たちを創っているこの個別性や複雑さが
それほどシンプルな「無」から
一体どうやって現れているのか?ということでしょう。


ですから
非二元の視点を最終地点とすることなく
歩き続けることが大切だと感じるのです。



私は理性を度外視するのではなく
理性を超越した探求に興味を持っています。

理性を排除するわけでもなく
科学のように理性ありきの姿勢でもない。

理性を超越するとは
理性も包括しているということです。


言い換えると
人間性を超越するということ。

それは
ひとりの人間としての視点も
包括するということです。


非二元と等しく 二元性も真実。

それで失うものなど何もありません。















2014/02/20

個人は幻想でしかないのか


つづきです。



<ティム>

古代の神秘学に興味深い教えがあるのです

覚醒のプロセスが
彼らにとっては当然のことだったようなのですが

まず最初のステップとして
自分は肉体ではなく霊的存在だという認識にシフトします。

私たちも ここまでの道の途中で
このような認識の変化を体験してきたわけですが
とても大きな飛躍ですよね


個人性がなくなる。非二元。

すべてはただ起こっている。

すばらしい解放でしょう。

自分という個人を成長させなきゃと思ってきたのに
突然、個人としての自分が消えるのですから。


しかし
彼らはそこで終わりにしていないのです。

覚醒のプロセスはまだ続きます。


非個人・非二元の視点と
ひとりの人間としての視点

その両方を融合させるのです。


非二元のコミュニティーは
その方向に進化していくのではないかと
私は興味深く感じています。

個人としての体験も
単なる幻想だと軽視されるようなものではなく
実はとても重要なものであると気付くのです。

   
<リック>

いまティムが話したことを
リサはどのように感じますか?


<リサ>

正直に言うと...単なる音声です。
楽しく聞いたけれど
音声が現れているとしか感じません。



<ティム>

それはあんまりだ(笑)

リサが話すのを聞いているとき
私はその話し声から意味を感じ取るよ。

単なる音ではなく意味がある。
それってすばらしいことじゃない?



<リサ>

言葉をつなげて意味を見出そうとすれば
そうできるでしょう。

でも
あなたの話がどうでもいいというわけじゃないけれど
やっぱり音声が現れているだけなんです。

あなたが話したことは真実ではありません。
そういう形で現れるものは真実ではないのです。


<リック>

もちろん
音声が現れているだけだという見方も事実ですよね。

でも たとえば
あなたの犬だって「細胞の集合体」ですが

それをあなたは「犬」だと解釈して
かわいがったり遊んだりしているじゃないですか。

   犬

<リサ>

そういうことが起こることもあれば

起こらないこともあるでしょう。

犬の世話をしたり かわいがったりすることも
日常で不自由なく生活することも
今このように話をすることも

何の努力もなく ただ起こるのです。



<リック>

じゃあティムが話した内容に意味づけするとしたら?


<リサ>

どんな解釈でもできます。

天才的だと言うこともできれば
実にくだならい、意味不明と言うこともできるし

絶対的な解釈などないのですから
どうとでも言えます。


<ティム>

前にもこういう会話をしたことがあるんですよ。
リサはニコニコ笑いながら
本当にハッキリ言ってくれるんですよね(笑)

非二元の視点からは完璧な描写です。
言葉にできるものではないですからね。

言葉にすることなくニコニコ笑うことで
とても的確に表現される。

ただ リサは

探求して行き着いた非二元の視点に
留まっていたいのでしょう。

あるいは
人生があなたをそこに留めている
と言うべきか

どんな言い方でもいいのだけど。


だからといって これからもあなたが
ずっと同じことを言い続けるとは限らない。

さらに先に進むだろうとは言いませんよ。
それはどちらでもいいことです。

意識そのもの、生そのものが
あなたのような在り方も含め
さまざまな表現をしているのですから。



<リサ>

「あなた」や「私」など、どこにもいません。
そういうのは解釈です。

解釈することが間違いとは言わないけれど
「あなた」や「私」って
いったい誰のことですか?



<ティム>

リサ、あなたも私も
今ここに形として現れています。

これは明らかなことでしょう。


明らかに体験していることを否定しはじめたら
原理主義的な宗教と同じですよ。






つづく

   




2014/02/19

この世は夢だというけれど


ティム・フリークとリサ・ケアンズの会話です。


ティムは
個人や行為者はいないという真実と同時に
個人としての視点や個別の現れもまた真実であると言い
アジャシャンティのこの話のように)

リサは
あくまで個人などいない、行為者など誰もいない、
私もあなたも誰もどこにもいない、
ひとりの人間としての視点さえないと
トニー・パーソンズと同じような話し方をしています。


ふだんは人々に教えている立場の人同士が
それぞれの見方の違いについて
このように会話をしているのは珍しいと思いました。


こちらからざくっと訳しています。







<リック・アーチャー(司会者)>

しばらく前に

「誰が夢のバスを運転している?」という映画を撮った
ボリス・ヤンシュから連絡を受けました。

     バス

その映画のテーマについて
ロンドンで会合を開くらしいのですが

その前に
この番組で同じテーマについて話し合い
それを放送したらどうかと提案してくれたのです。

それで、おもしろそうだと思って
今回ティム・フリークとリサ・ケアンズを招待しました。



ティムは哲学者、英知を大切にしている人で
日常的な人間性を受け入れながら
スピリチュアルの覚醒を体験するための
シンプルな方法を開拓しています。


リサは世界中の人々に
非二元やワンネスについての教えを説いています。


ここでボリスに
ご自身と映画の紹介をしていただきましょう。



<ボリス・ヤンシュ>

「誰が夢のバスを運転している?」は
15年前から始めたプロジェクトです。

私は制作会社を経営していたのですが

20代前半の頃
人生の大きな問いに対する答えを渇望しはじめ

明晰夢、幽体離脱、レイキ、催眠術、瞑想など
とにかく何でも試してみましたし
スピリチュアルや哲学の本もたくさん読みました。

       読書中

でもいつも
「次は何を試せばよいのだろうか?」と模索し続け

渇望感が
ついには絶望感に変わっていきました。
    ブタ


その経験が

「私は誰なのか?」

「目覚めたまま見ているこの夢とは何なのか?」

という大きな問いについて
たくさんの人に話してもらって映画にする
という発想のもとになったのです。

本やYouTubeを通して知った人たちに連絡を取り始め
だんだんと膨らんできました。




最終的に私は
非二元の教えに引き付けれました。

それは
宗教や哲学やスピリチュアリティーなど
生についてのあらゆる教えを超越する
最終地点のように感じたのです。


この映画の内容を簡潔にまとめると

ティム・フリークやトニー・パーソンズ、ジェフ・フォスターなど
何人かのすばらしい語り手の話を通して
大きな問いへの答えを探求するというものです。




<リック>

リサは映画には出ていないけれど
ロンドンの会合には参加するんですよね。


興味深いことに ボリスが言うには
リサとティムはいくつかの点で
見方が異なるらしいのです。

だからきっと今回は
おもしろい話し合いになるだろうということでした。


では二人から
映画のテーマになっていることについて
それぞれどのように見ているのか
話してもらいましょう。



この映画のタイトルは
世界は夢であり 幻想なのだ
ということを示唆していますね。


誰も夢のバスを運転していない
という見方があります。

特にトニー・パーソンズは
そもそも「人」などいないのだから
やるべきことも何もない。
すべては自動的に起こるのだと強調していますね。

しかし
運転している人はいるという見方もあります。

人など誰もいない、というのは
あるレベルではその通りなのだけど

誰もいないという事実と同時に
ひとりの人間としての私がいるという事実も確かにあって
その視点からは選択もするし自由意思もあると言えると。

リサはどちらの見方をしていますか?



<リサ>

運転している人は誰もおらず
人生はただ起こっているように見えます。

表面上は
人が何かを決断をしたり考えたりしているように思えても
実際は運転していることにはなりません。
何かを自分の意思で選択している人はいないのです。



<リック>

つまり
何かを決めたり選択をしている人はおらず
夢の中で
選択はただ起こっているということですね。



<リサ>

選択は起こるのです。

何らかの行動が起こったり
何か考えが浮かんだりするときも

その行動や思考が「誰か」に起こるわけではなく
ただ起こる、ということです。



<リック>

お茶を飲む人もいない、
何かを考えている人もいない、
犬を飼っている人もいない、

「人」など誰もいなくて
ただ人生が起こっているということですね。



<リサ>

特定の誰かがやっていることなど何もなく
いつでもただ起こっているのです。
とってもシンプルですよ。

「’誰か’がやっている」というのは
解釈にすぎません。



<リック>

ティムの場合はどうですか?



<ティム>

いまリサが話したことは...

全体像の半分だけについて言うなら素晴らしい描写だ
と思います(笑)


私も長い間
リサと同じような見方に留まっていましたし
今でも魅了されていますが
さらに先があるのです。


そのような見方が最終地点だと結論づけることには
かなり懐疑的になんですね。

私には
そこがまたスタート地点だと感じられるのです。



この世界のことを
科学でもいろんな比喩で表現していますよね。

自分で操作できないジェットコースターだとか
ホログラムだとかコンピューターだとか。

これは客観的な表現ですね。



一方 
スピリチュアルは主観的な探求なので
比喩を使うときも主観的な表現になっています。


「この世界は夢だ」というのが
分かりやすい比喩ですね。


「夢」という例えは私もよく使います。

私の実際の体験のとても重要なところを
生々しく的確に表現しているからです。


目覚めた状態というのは
私から見ると
明晰夢を見ているようなものなんですね。

明晰夢という比喩でピッタリくるのは
起き上がって
「なんだ、夢だった」と言えるわけではなく

自分は相変わらず夢の中にいながら
同時に
その夢は自分の中にあると気付いている

ということです。



夢の中で あなたは

ひとりの人間として生きていて
何かを決断したり
個人的な視点からものごとを見て

夢の中にいる他の人たちと関わりを持ち
起こる出来事にも関心を持って
いろんなおもしろいことも体験して
ストーリーにも巻き込まれますね。


夢だと気付かずに見ている夢では
その視点が全てなのですが

明晰夢の場合は
それと逆の視点も同時に事実なのです。


つまりあなたは
すべてを夢に見ている側。

その視点では
あなたは夢全体です。

すべてのもの、すべての人が
あなたなのです。


美しいパラドックスでしょう。


あなたは

分離した個人でもあり
同時に 
あらゆる全てでもある。


このような描写のほうが
私が体験している感覚にピッタリなのです。

両方の見方が共存していて
どちらか一方だけが真実というわけではない。

両方とも真実の一部なのです。



リサが言った通り
とてもシンプルで
すべてがひとつで
すべてがただ起こっている。

一方で

すべては個人的で
とても複雑で
いろいろ気になったり傷付いたりして
実に人間的。


この両方が共存しているのです。
驚くべきことですよね。



興味深いのですが

このような会合が起こっているのは...
まぁ確信はないけれど

非二元のコミュニティーが
進化していっているからではないでしょうか。

そうだったら嬉しいですね。


15年か20年くらい前に
私が非二元の教えに出会ったとき

その頃は非二元の教えが
今ほど普及していなかったのですが

ラメッシ・バルセカールなどが説いていた
徹底した非二元の教えに多大な影響を受けました。

そのときほど
ものごとがハッキリと見えた体験はなかったので
とても興奮したものです。


でも
それで終わるかと思った探求は
終わりませんでした。



個人としての視点しか持っていなかったときは
幻想は取り除きたいものでしたが

すべてはひとつだ!」と実際に見えたとたん
幻想が興味深くなったのです。


本当だ、すべては夢だ!


じゃあ


この夢は何なんだ?
なぜ夢がある?
単なる何かの間違い?

個人としての存在や 人類の長い歴史など
何もかも間違いで
消え去ってしまえばいい幻想に過ぎないのか?


実は 夢の世界のことも重要で
かけがえのないものではないだろうか?


でもそれを本当に見極めるためには
すべてはひとつだと見えている視点も必要なんですよね。


そうやって
ますます興味が湧いてきたのです。




つづく