(アジャシャンティのサットサンより)
<質問者>
質問というより報告なんですが
こういう場で たくさんの人が話しているような
大きな「目覚め体験」を
私はしたことがないのです。
目からウロコが落ちるようなことも
時々はあるんですけど
それでも
大きな体験と言えるようなものじゃなくて
いろんな幻想が だんだん はがれ落ちていって
少しずつ目が覚めてきているかな?という感じで
「もういちど味わいたい」と思うような
劇的な目覚め体験はしたことがないんです。
<アジャ>
それでOKなんですよ。
目覚めは
突然起こることもあれば
じわじわ起こる場合もあるし
劇的な気付きと じわじわした気付きが
混ざり合った目覚めも多いのです。
目覚めに至るプロセスは
どんなパターンでもあるんですよ。
夜明けに太陽が昇るとき
最初は少ししか見えていなかったのが
だんだん大きくなって全体が見えてきますよね。
少しずつ目覚めるパターンも
それと同じようなイメージで
気付きがだんだんと明瞭になってくるのです。
そういうパターンもよくあるんですよ。
<質問者>
今まで
いろんな人の体験談を聞いてきて
目覚めというのは
大きな体験が何回か起こって
段階的に進むのだというイメージがあったんですね。
でも私の場合は特に大きな体験がないので
自分がどの段階にいるのかも
目覚めの方向に向かっているのかも
分からずにいました。
でも同時に
自分がものすごく変化したのも分かるんです。
たとえば
悩むことがあまりなくなりました。
何も改善する必要ないのだということが
本当に腑に落ちるまでには
長い時間がかかったけれど
今ではもう
何かを改善しなきゃとか
解決しなきゃという気持ちが弱まって
このままでいいのだと感じることが
ずっと多いのです。
批判的になったり
傷付くのを避けようとするような気持ちも
だんだんなくなってきました。
すばらしいじゃないですか。
劇的な目覚め体験だろうと
じわじわとした目覚めだろうと
まったくどうでもいいことですよ。
言葉にすると
どうしても相対的な表現になるので
目覚め方に違いがあるように聞こえる。
それだけのことなんです。
劇的な目覚めといっても
「あ、これだったんだ」
「これをずっと知っていたのに
完全には気付いていないだけだったんだ」と
ある瞬間にふと分かるだけで
そんなに大したことではないですし
じわじわ目覚めていくことも
本当によくあるんです。
話してくれてありがとう。
目覚めは特定の体験だけじゃなく
いろんなパターンがあるのだと
今の話で知ることができましたよね。
言葉には制限があるけれど
今のような話ができることは
こういう集まりの恩恵だと思います。
目覚めのプロセスには
人の数だけパターンがあるんですよ。
劇的な目覚め体験がないことは
実は恵まれているとも言えるでしょう。
過去の体験に執着しなくて済むのだから。
<質問者>
確かに
自分がどの位置にいるのかも分からないし
今はそんなこと気にもなりません。
<アジャ>
どの位置にいるのかなんて
知る必要もないことですよ(笑)
<質問者>
だんだんラクになってきています。
<アジャ>
それこそが
目覚めが起こっている証拠なんですよ。
どんなふうに目覚めるかなんて
まったく問題じゃないのです。
すばらしい例でしたね。
劇的な体験じゃなく
じわじわとした動きや ほんの微細な変化でも
軽く見る必要はありませんよ。
自分の中で
気付きが大きくなってきていることを
見逃さないでください。
真実が姿を現そうとするとき
そのプロセスは本当にさまざまで
どんな現れ方であっても
真実が花開こうとしているのです。
それを否定しないことですよ。
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